2006年度 2学期、火曜3時間目 2単位

授業科目 学部「哲学史講義」大学院「西洋哲学史講義」

授業題目「ドイツ観念論における自己意識論と自由論の展開」

 

          第7回講義(2006年11月28日)

 

Schoenrich教授の講演について

講演のテーマは、クワス問題をどのように解決するかということでした。

講演での提案は、クワス問題を、規則順守の制度化問題との類比において考察することでした。クリプキの解決はホッブズ型であり、それに対して、Schoenrich教授は、カントの法論をモデルにしてその解決を考える、ということでした。

 ホッブケ(HobbkeHobbesKripke)の立場は、共同体ないし主権者が、規則の規範性を保証するというものである。しかし、カントの立場は(私の理解するシェーンリヒ教授のカント解釈では)、既に自然状態にある事実的な関係を、法状態における相互承認によって規範化するという立場である。

 しかし、カントの立場が、クワス問題の解決にどのように有効なのかは、よく理解できなかった。Schoenrich教授のこの講演をより詳しく論じた論文が、次号のOsaka Metaphysica に掲載予定なので、それをまって考えたい。

 

         §6 ヘーゲルの自由論

 

(論文「ヘーゲル哲学とシステム論的家族療法についての一考察」の一部)

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1、ヘーゲルによる「選択の自由」批判

 ヘーゲルは、選択の自由という考えを、論文『自然法の学問的な論じ方について』(1802/03)で次のように批判している。

 

「自由は、対立する規定の間の選択であるべきであり、従って+Aと−A が前にあるとき、自由とは、自己を+Aとして規定するか、或は−Aとして規定するかにあり、端的にこの、あれかこれか(Entweder-Oder)に結び付いている、という自由の見方は、全く投げ捨てられるべきである。」

 

この批判の理由は次の通りである。

 

「全ての規定性は、その本質からして+Aか−Aである。+Aには−Aが、−Aには+Aが解きがたく結び付いている。個人が自己を+Aの規定性に於て措定したと同様に、彼は−Aにも拘束されている。−A は彼にとって外的なものであり、彼の力のもとにはない。むしろ彼は、+A と−A の絶対的結合のために+A の規定性によって直接に−A という疎遠な力のもとにあるだろう。自己を+A としてか或は−A として規定するという選択において成立する自由は、まったく必然性から外へ出て行けない。自由が自己を+A として規定するとき、自由は−A を否定するのではなく、むしろ−A は絶対的に必然的に自由にとって外面的なものとして存立する。自由が自己を−A として規定するときには、逆である。」

 

批判点は、選択の自由では、一方を選択するときに、他方が疎遠な力として襲って来るということである。そしてその理由は、+A と−A が解きがたく結びついて、相互作用の関係にあるということである。

諸関係の相互性ゆえに、意図したこととは別の事態を引き起こすことになる、というこの指摘は、システム論的家族療法論が「円環的因果性」による悪循環としてとらえようとしている事柄と同じである。しかし、両者には次のような差異がある。相互作用や円還的因果性は、このような事態の必要条件ではあっても、それだけでは悪循環の必然性までも説明することはできない。つまり、問題に対処しようとする第一種変化が常に悪循環に陥るということはない。しかしヘーゲルは、ある意味では、行為はつねに挫折すると考える。この点が、ヘーゲルとシステム論的家族療法論の非常に大きな違いである。例えば、『精神現象学』では、承認を求めての生死をかけた闘いは、意図したことの逆の結果となり、また主人と奴隷の関係でも、その関係の実現において主人の真理は、奴隷の奴隷となり、奴隷の主人は主人となる。このことは、不幸な意識の内部でも繰り返され、「敵に対する勝利がむしろ敗北であり、一方の獲得がその反対にその喪失であるような、敵に対する闘いが生じている」といわれる。ヘーゲルは、このようにつねに挫折することを自己意識の本質であると考える。これは、「自己意識の本質」つまり「無限であること、すなわち、直接的に、自己意識が措定されている規定性の逆であること」に由来するともいえるだろうが、別の面から考えてみよう。

 

2、選択の自由のダブルバインド

 ヘーゲルは、選択の自由における選択肢は、主体にとって外的なものであると考える。それは、選択の自由においては選択自体が強制されているということを意味することになるだろう。その理由は、次の通りである。選択肢が、外的なものであるということは、選択肢が、主体によって生みだされたものではなくて、与えられたものであるということである。選択肢が、与えられたものであるということは、そこで選択するということ自体も与えられたものであるということを意味するだろう。なぜなら、選択すること自体を自分で自分に課すということは、一定の内容の選択を自分に課すということであり、選択肢も自分で設定することになるだろうが、逆に、選択肢が外的なものであり、自分で設定したものではないとすれば、選択すること自体も自分で自分に課したのではないだろうからである。選択すること自体を自分で自分に課したのではないということは、選択することが強制されているということである。

 ヘーゲルにとって、自由とは徹底的な意味で強制がないことであって、ヘーゲルは選択の自由における選択肢の外面性において、選択自体の強制を確実に感じとっている。

 

「強制の概念のなかには、自由にとってなにか外的なものが直接に措定されている。しかし、それにとって何か真実に外的なもの、疎遠なものがある自由は、如何なる自由でもない。自由の本質及びその形式的な定義は正に、絶対的に外的なものが何もないということである。」

 

これを言い換えると、「他なるものにおいて自己の許にあること」という有名な自由の定義になる。

 ところで、自由な選択が強制されているということは、次のようなダブルバインド状況にあるということを意味している。つまり、その時そこで「おまえは自由である」というメッセージと、これに矛盾する「おまえは不自由である」というメタメッセージが与えられている。もちろん、選択の自由と、選択しなければならないという不自由は、論理階型が違うので論理的に矛盾するわけではない。このようなダブルバインド状況にあるものは、どちらの選択肢を選択しても自由でありかつ不自由であることになる。したがって、ヘーゲルの考える自由を実現することはできない。

 

注:「ダブルバインド」という概念については、ベイトソン著『精神の生態学』上、下、佐伯泰樹、佐藤良明、高橋和久訳、思索社、を参照。とくに、その中の論文「精神分裂病の理論化へ向けて」を参照のこと。

 

3、ヘーゲルの主張する自由

 ヘーゲルが主張する自由とは次のようなものである。

 

「自由は、肯定的に或は否定的に、−A を+A と統一し、+A の規定性の中にあることを止めることによってのみ、自由である。」

 

この統一については、(大変わかりにくい表現だが)次のように言われる。

 

「二つの規定性の合一において、両者は否定されている、+A A = 0。この無が+A と−A へ相対的にのみ考えられ、規定性としての無差別のA自身とプラスないしマイナスが、他方のマイナスないしプラスに対立して、考えられるならば、絶対的自由は、各々と各々の外面性を越えると同様に、この対立を越えており、また端的に全ての強制が不可能であり、強制は全く如何なる実在性も持たない。」

 

この表現は解釈を必要とするだろう。行為の選択肢として+Aと−A が与えられている場合に、この二つが全く無関係に並んでいるのだとすると、それらは互いに対して外面的であるといえるだろう。逆に、それらが本質的に対立しているとすれば、それらは互いに対して外面的ではなく内的な関連をもつといえるだろう。そして、それらの選択肢が対立していると考える者が、一方の選択肢を選択する場合には、そのことによって他方の選択肢と必然的に対立することを覚悟するだろう。このような者は、絶対的に自由であると、ヘーゲルは考える。なぜなら、彼もまた他方の選択肢と敵対することにはなるのだが、彼にはその事は外面的な、偶然的な事ではなくて、必然的であり、彼の選択と内的な連関をもっていることを自覚しているのである。つまり、彼は、+A を選択したと同時に−A への敵対的関係をも選択したのであり、その意味で彼はその選択において+A と−A の両方への一定の関係を選択しているのである。だから彼はその選択において+A と−A の両方を統一しているということができる。

 これに対しては、おそらく次のように反論したくなるだろう。たとえ、そこまで見通して行為するにしても、やはり彼は選択しているのであって、彼の自由は選択の自由である。変化したのは、選択肢の理解だけである。以前には、+A と−A の選択であったが、この二つの内的な関連を理解する事によって、+A を行い−A に敵対するか、−A を行い+A に敵対するか、という選択を行っているのだ。このような反論についての検討を行うためにも、ここでヘーゲルの議論の続きをみておこう。

 先の引用にあるように、二つの選択肢を統一する方法には、否定的な仕方と肯定的な仕方の二種類ある。否定的な仕方とは、死である。

 

「この否定的絶対者、純粋自由は、その現象においては、死である。死の可能性によって主体は自己を自由として証明し、端的に全ての強制を越える。」

 

もう一つの肯定的な仕方とは、次のようなものである。

 

「このことを例えば、刑罰に適用すると、刑罰においてのみ仕返しが理性的である。というのは、刑罰によって犯罪は抑制されるからである。犯罪が措定した+A という規定性は、−A の措定によって補われ、そうして両方が否定される。或は、肯定的に見ると、+A の規定性と共に、犯罪者には反対の規定性−A が結合し、両方が同じ仕方で措定される。というのは、犯罪は、一つの規定性のみを措定するからである。従って、刑罰は、自由の復活である。」

 

このようにヘーゲルが述べるとき、彼はギリシア悲劇『アンティゴネー』を考えている。ギリシャ悲劇のアンチゴネーは、神の法にしたがって兄弟を埋葬するか、人の法(王クレオンの命令)にしたがって兄弟の埋葬をしないか、の選択を迫られるのだが、彼女の例で言えば、神の法を選択した彼女は、人の法による罰を進んで受け入れ、また選択の時点ですでに人の法による罰を受け入れる覚悟をして選択したことによって自由であり続けたのである。否定的な方は、死によって選択の強制を逃れているという自由であり、肯定的な方は、選択肢の外面性を内面化することによって選択の強制を逃れているという自由である。

 さて、ここで先の反論の検討に戻ろう。+A と−A の内的な連関を認識し、選択しなかった選択肢と敵対することを覚悟して行為するとしても、彼はやはり、+A を行い−A に敵対するか、−A を行い+A に敵対するか、という選択を行っているのであり、彼の自由は選択の自由である。先の反論はこうであった。これをアンチゴネーの例に当てはめると次のようになる。彼女が、神の法に従うか、人の法に従うか、という選択を迫られたときに、両者の内的な連関を認識して、どちらの法をとっても他方の法による罰を受け入れなければならないということを認識していたとしても、彼女は、人の法に従って神の法の罰を受けるか、神の法に従って人の法の罰を受けるか、という選択をしたのであって彼女の自由は選択の自由である。

 これに対してヘーゲルならばこういうだろう。アンチゴネーが自由であるのは、上の言い直された選択肢からの選択の自由があるからではない。彼女は、両方の法がともに自分の本質であることを知っているから、行動においてどちらの法に従ったとしても、自分が破らざるを得なかった法の罰を自ら進んで受容したであろう。まさにこの点にこそ彼女の自由があったのである。それゆえに、この自由は、選択の自由ではない。

 

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注:ソフォクレス『アンチゴネー』のあらすじ

テーベの王オイディプスとイオカステの間には、四人の子供、上から、エテオクレス(男)ポリュネイケス(男)アンチゴネー(女)イスメネ(女)がいた。オイディプスが自分の罪を知ってテーベを去った後、二人の息子は、王位継承をめぐって争った。ポリュネイケスは、義父であるアルゴスの王と組んで、テーベを支配しようとした。戦いは、最後にエテオクレスとポリュネイケスの一騎打ちとなり、二人とも死んでしまう。新しくテーベの王となった、イオカステの兄弟クレオンは、謀反人ポリュネイケスの埋葬を禁止する。

 これを聞いたアンチゴネーは、ポリュネイケスを埋葬しようとするが、つかまってしまう。アンチゴネーは岩室に生きながら閉じ込められる。アンチゴネーは首をつって自害する。それを見た彼女の婚約者ハイモン(クレオンの息子)も自害する。これを聞いたハイモンの母親つまりクレオンの妻エウリュディケも自害する。

 

 

4、何が解決されたのだろうか? まだ何も解決されていない。

 アンチゴネーにとって、人の法と神の法という選択肢は、どちらも外的なものではない。その対立もまた外的なものではない。選択もまた外的なものではない。その選択肢はどちらも彼女の本質であり、その選択は彼女の宿命である。

 この選択において、彼女の決定は自由である。そこには、外的なものがないからである。しかし、このような共同体の規範との一致は、古代社会、あるいは伝統的な共同体には成立しても、近代以後の市民社会には成立しえない。

 つまり、市民社会の個人主義においては、個人は当該の社会的な規範をふくめて、あらゆる価値や規範から距離をとり、それから自由になりうる。彼は負荷なき自我、空っぽな自我、超越論的な抽象的な自我である。

 ヘーゲルの歴史理解によれば、古代ギリシア社会は、家族原理と国家原理の内的な矛盾を抱えていために没落し、個人原理の立場に立って、国家と家族を個人に還元する社会が、古代ローマないしキリスト教から始まる(これは、コジェーヴの『精神現象学』解釈である)。ヘーゲルの理解では、この個人原理がゆきつく、近代市民社会とカント的な道徳性の立場もまた、内的な問題を抱えていた。それは上に見た「選択の自由」ないし「決断主義」と、他方での市民社会における貧富の差の必然的な拡大による国家の弱体化ないし崩壊という問題である。そこで、ヘーゲルが考えるのは、人倫国家という新しい共同体である。しかし、これが十分にうまく言っているとはいえない。その理由は、個人の先立つものとして共同体ないし共同体の規範を考えるからである。

 古代的な共同体でもなく、近代市民社会でもない、もう一つの社会を構想しようとする基本的な立場は認めてもよいだろうが、しかしヘーゲルは古代社会モデルに接近しすぎている。それは、現代の多元的な社会にはモデルにならない。

 しかし、我々はヘーゲルから、個人の選択の自由から出発するのではなくて、個人の選択の不可避性から出発するという試みを継承することが出来るだろう。